三日月の夜に
 いかなくちゃ。

 隣に立つ先輩が、おもむろにそう呟いた。
「…せんぱい?」
 いつも、薄っすらと笑う人だったけれど、今は特に複雑な笑顔だった。困っている、悲しんでいる。だというのに、全てを諦めてしまったの?後腐れの無いほどの表情だったなら、引き止めようとすら思えなかっただろうに。
「…まほろ、ありがとう。…私、いかなくちゃ」
「ま、待って、ください。あの子は、…蘭ちゃんは、」
「私は」
 言葉を遮って、先輩は続けた。
「…私はね、幸せになりたかっただけなの。でも私が一緒だと、蘭はいつまでも幸せになれないのよ。…だから、ここでさよなら」
「!」
 ……先輩が、重症を負ってまで戦場に出るのは、もう戦いの終わりが見えているからだと思ってた。死なせやしない、という思いとは裏腹に、先輩は嬉々として戦場を駆けた。…死にたいのだと、薄々思っていた。そうすることで救われようとしているんだと、勝手に思っていた。
(ちがった)
 死にたいのではなかった。だから、平然とこんな選択をしてしまうのだ。
(先輩は、離れたかったのね)
 自分から一人立ちして個人になった我が子を、ただ幸せにしたいだけだった。先輩と一緒だと幸せになれない、という言葉は理解できないけれど、先輩の中ではもはやそれは揺るぎそうに無い。今から説得して引き止める時間も無い。
 私には、そんな言葉も無い。
「みんな、…いえ、藍晶石に伝えてほしいな。…ありがとうと、さよならを」
「…せんぱい」
 困ったように笑わないでほしい。先輩は世界に対してこんなにも未練があるのに、まるでもう決定事項かのように旅立ってしまおうとしている。いかないで。こんな単純な言葉も、先輩が望まないのかと思うと喉の奥でつかえてしまった。
「まほろ」
 優しく笑う、先輩。
 きゅ、と両手を握られて、私は無性に泣きたくなった。
「一緒に居てくれて、ありがとう。…蘭を、よろしくね」
「……」

 まもなく手が離されて、黒髪が 揺れて 消えた。

2012/07/22