弟と笑顔
 少年はその家に生まれた。
 彼は当主たれと幼いころより教育を受けた。
 対人の笑顔。テーブルマナー。ダンスのステップ。書面の書き方。魔法。剣。言葉の選び方。喋り方。友人の選び方。答え方。振り返り方。服の選び方。座り方。立ち方。歩き方。――生き方。
 それらは彼にとって極当たり前のものであったし、その教育に常に携わった母親にとっても当たり前のものであった。そう。彼の母親にとって、それらは常識程度でしかない。これらの上に、当主としての諸々がかぶさるのだから。
 彼は常に教育され学び評価され応えた。けれど彼自身は元来物静かでぶっきらぼうな少年だった。誰を相手にする時も(母親が相手の時も)、常に笑顔を携えたがそれはあくまで"そういう"形式であり果たすべき義務というだけ。ふとした瞬間に生来の無表情に戻り、けれどそれを見た者はいなかった。
 それが日常だった。

 彼が10才の時の話である。


 短い銀の髪が揺れている。
 耳にもかからず、肩にも届かず、眉にはかかる程度。几帳面に揃えられた短髪。顔にはこれといった表情は浮かんでおらず、ただ淡々と廊下を歩く少年。辿り着いたのは一つの扉。何の変哲も無い木の扉が、少年には少し重く感じられた。ノックもせずにギィと開ける。

「あぁ、兄様。こんにちは」
「やぁ、遙」

 片手で足りる程度の邂逅だった。少年――星宮斎が弟たる遙と会い、話したのはこれで4度目になる。赤子の遙など、会ったことは無い。1度目は、2年前に遡る。同じくこの部屋で、母親に「弟ですよ」と紹介された。そのまま帰った。2度目は、1年前だ。新年の挨拶をした。3度目はつい1週間ほど前。平たく言えば"そういう"勉強だった。お互いの。肩口で揃えられた、ともすれば女より美しい髪の毛にぞっとしたものである。そして今。いつも通り笑顔で答えてから、一拍置いて斎は盛大に眉をしかめた。

「遙、いい加減にしろ」
「まぁまぁ。いいじゃない」

 過去3度、そして今回のいずれもこの格別広いわけではない部屋での邂逅であった。室内には広い天蓋付のベッドとすぐ傍に大きなテーブル。少ない衣類が収納されたクローゼットと、そして壁一面の本棚。充満する紙とインクの匂い。そして何より斎が許し難いのは、ベッドの傍らのそこかしこに散乱した、本棚に収まらぬ書物の山。一週間前となんの変化も無いようで、けれど山は違和感無く増減し本の内容はほぼ全て別物になっている。これがまったく動いていないのなら片付けようものを。
 斎は思う。
(あぁ、めんどうくさい。なんで、俺が)

「で?持ってきてくれたの?」
「あぁ。本当にこんなものを読むのか?」
「読まないでどうするの、兄様。ありがとう」

 見慣れた笑顔だった。特にどうという理由無く貼り付けられた綺麗な笑顔。けれど俺には、未だにその笑顔たちが本心なのかそうでないのかわからなかった。わかろうとしたことも無かった。ただ少し、見るたびに、思う。きもちわるい。と。
 ありがとう、と伸ばされた手はそこに希望の品が落とされるのを待ち侘びている。早く寄こせと訴えている。若干思うところが無いでもなかったが、大人しく手に持っていた重い本を渡した。遙のベッドに。
 持って来させられたのは一般に伝えられている中級魔法の辞典と、王国に伝わる寓話選集。どちらも酷く重い。脇に抱えて持つことができたが、遙の細く白い腕で受け取れるとは思えない。差し出した右手を見ぬ振りをしたことも、遙には大したことではないようだった。自分より4つ下の弟は足に乗った重い感触に目を輝かせている。やはり俺にコイツは理解できない。

 2年前から、ずっとそうだった。遙は部屋から、ベッドから一歩も出ず、(少なくとも俺の前では)本を読むか、何事かを羊皮紙に書き写すかの二択だった。書き連ねられた文字は独特の韻を踏み、見たことも無い言葉で聞いたことも無い円を描く。俺が現在尚学んでいる領域を遥かに超えている。床に散乱する本。机に無造作に積まれた羊皮紙。どれを取っても、自分を基準とした常識の範囲内を逸脱している。ヤツを理解しようとするのは、もうずっと前に諦めていた。それこそ、そう。2年前のあの日、笑顔で「出ていけ」と呟かれたあの時から。

 しばし思考に耽っていれば、さらとペンの動く音がした。もはや遙の眼中に俺は無い。そういうやつだった。最初から。そう、最初から。
 身を翻し、扉を開けた。ペンの動きは止まらない。閉じた。何の言葉もいらなかった。
 普段なら、何かしら声をかけるのが義務であったがアレに関してはそれらマニュアル通りの対応の全てが逆効果であった。

 改めて思う。理解できない。
 現在1歳のもう一人の弟は、間々会うものの意思疎通ができるわけでもない。
 この家に、この世界に。斎が意思疎通をしようと思う者はいない。わかってほしいと考えることも無い。

 けれど、遙というあの奇人の前では、笑顔はたやすく崩壊するのだ。

2010/02/19