末弟の素敵な死
 小さな足音が聞こえて、それが二人分だとわかるころには、カラカラと躊躇うように扉が開いた。
「た、ただいまー…」
 様子を伺うように、おずおずと姿を現す緑の髪。明らかに僕の反応を伺っているのだが、あえて解りやすい答えを準備するほど今の僕は優しくない。目を細めて、口を曲げて、そしてフードを被り、日の差す窓を背中に。僕は一刻も早く二人が部屋に入るのを待った。
 少年と少女は、ようやく戦場から部室へ帰還した。

「……よ、よう、あっきゅん。…ただいま」
 僕の笑顔がそんなに怖いだろうか。だとしたら、――だとしたら、上出来だ。とてもとても、パーフェクトだ。
「――おかえり」
 カイトも、ミナトも、その一言で顔を綻ばせた。それが僕の心をまた少し抉った。それでも僕の決意は揺るがない。僕の怒りは煮え切らない。僕の未来は覆らない。
 僕がどれほどの葛藤を隠して、たったの4文字を口に出したかなんて、君たちにはわからない。それは別に、君らが悪いわけじゃない。僕が星宮である限り、それはそうあるべき正しい形だ。簡単に悟られてはいけない。ずっとそう習ってきた。
 そして僕は今、足が震えそうなほど、叫びが零れそうなほど動揺しながら、また一つ未来へ踏み出す。
「じゃ、…僕は、これで」
 嬉しげな二人の横を通り過ぎる。返事をする間も与えない。そんなもの聞きたくもない。決して荒々しくならないよう慎重に扉を閉めて、一つ深呼吸する。
 吐く息が震えた。
 あとはもう、どうでもよかった。
 念のための雷結界を新聞部の扉に乱雑に貼って、そのまま脇目も振らず走った。

 走った。
 走った。
 走った。

 スレドニールの広いグラウンドを突き抜けて、訝しげな視線を全て黙殺して、校門で荒い息を整えるべく立ち止まった。こんなに走ったのは久しぶりだ。本土にいたころ以来だろうか。眼下にはスレドの長い下り坂があって、これを駆け下りるのは少し怖い。ぶっちゃけそのまま躓いて転びそうだ。
(…それでも、『羽根付き』が追いつく前に)
 僕は駆け出した。力の限り地面を蹴って、ついでに生まれて初めてなぐらい思い切り叫びながら、重力と慣性に従って、前も見ないでひたすらに足を動かした。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙――!!!」

 坂も終わろうかという頃には、喉は痛くて枯れていて、意味も無く涙が溢れていた。足は痛くて自然と歩いていたし、そのうえ小さな石に蹴躓いて派手に転んだ。
 痛くて痛くて、空しくて、悲しくて、寂しくて、痛くて、馬鹿らしくて、辛くて、悲しくて、泣きたくて、寂しくて、僕は泣いた。泣き続けた。
 カーブを曲がりもしなくて足を踏み入れた森の中で、ぐちゃぐちゃになって泣き続けた。僕の耳に、僕の嗚咽だけが響いていた。汚れも、傷も、何も気にならない。僕は僕の思うまま、ガキみたいにただ泣き続けた。
 駄々をこねたいわけじゃない。何かを与えてほしいわけでもない。ただひたすら、癇癪を起こした幼児のように、泣き続けた。悲しかった。悔しかった。結局僕の策は何一つ実らなかった。双子は無断で戦場へ行った。どうしようもない怒りと悲しみに絶望して、ただ指をくわえて事の成り行きを見守った。そんな無力な自分が恨めしかった。
 僕は無様に泣き続けた。そのままうずくまって寝た。寒くて起きた。のろのろと、僕はアヤトへの道を辿った。
 髪はぼさぼさで服もぼろぼろで、目は腫れているだろうし擦り傷だらけ。こんな僕がアヤトについたら、どうなるんだろう。
 考えると、少し笑えた。

「円城寺、頼みがある」
 ボロボロのフードを目深に被って、僕は寮のとあるドアを叩いた。
「……誰かしらぁ?こんな、――負け犬に」
 顔色の悪さでは、おそらく今の僕といい勝負をするだろう。副会長の座をを掴み取ったあの円城寺恋子は、あの頃は決して見せようとしなかった鋭い目つきで僕を睨んだ。うっすらと開いた扉を掴んで、僕は彼女の耳元に囁く。
「頼みがある。僕を殺してほしい」
「…入って。話を聞くわ」
 叶う限り満面の笑みを作った。うまく笑えた自信は無い。

「…でぇ?一体なんだって言うんですかぁ?」
「この部屋ナイフは無いの?ハサミでもいいや」
「……。ありますよぉ。はいどーぞ」
 もらったハサミで、僕は躊躇わず腰上で髪を切った。唖然とする円城寺を振り返る。ずっと、ずっと、今まで使ってきた笑顔を貼り付ける。これでもう、最後だ。
「…どーゆーつもりなの?」
「よく言うじゃん。……今、この時をもって、『星宮玲』は死んだ。ここにいるのは、『アキラ』だ」
「あっそーですか。…なんで私の部屋に?」
「それは、もう一つ頼みがあるからに決まってるだろ」
 円城寺の訝しげな視線を浴びる。僕…いや、『私』は彼女に深く頭を下げた。最敬礼。この角度の立礼を、一般にそう呼ぶ。
「女になりたい」
「…ハァ!?」
 寝言は寝て言え、とは最もだと思う。『私』もそう思う。でももう決めたのだ。投げ捨てるなら、全てがいい。何一つ残らなくていい。地位も財産も、愛も友も思い出も。ちっぽけなプライドもなにもかも。『僕』は全てを捨て、『私』になり、なにもかもから逃げおおせてみせる。そう決めた。息苦しい新聞部の部室で僕は一人で結論付けたのだ。
 手始めに。そう私は言った。
「まず髪を揃えてほしい。自分じゃ出来ないから」
「……本気なの?冗談じゃなくて?あんた、ギャグのセンス無いわよ?」
「何もかも本気だよ。…うーん、肩下でおかっぱが良いな。前髪もどうにかして」
 苦虫を噛み潰したような顔を見る。なるほど。女性は恐ろしいなどと言われるわけだ。
「一月…いや、半月で良い。道ですれ違う人を騙せれば良いんだ。服とか化粧の手配は星宮玲じゃできないし、できれば髪も染めたい」
「……何処まで、逃げるの?」
「遠くまで」
 どこまででも行く。僕が星宮で無くなった更にその先まで。行けるところまで。ずっとずっと遠くまで。
 円城寺の不愉快を前面に押し出した顔は忘れられそうに無い。

「……上手いね、円城寺さん」
「髪を切っただけでそんな気持ち悪い言い方しないで。…アキラ、髪は本当に染めていいの?」
「もちろん。この色じゃバレるからね。……ちなみに、名前も決めてあるんだよ。キャラの特性もある程度は」
「は?」
「『私』はレイ。レイ=メテオ。敬語キャラで引っ込み思案であまり喋らない」
「……メテオ、ね。敬語キャラとか、…キモッ」
 隕石。星は落ちるものだろう。このベタベタに星宮を皮肉った名前を私は案外気に入っている。あの閉鎖空間にこそ、星が落ちればいいのだ。
「円城寺さん。感謝しています。……『星宮玲』のペンを持って屋敷を訪ねてください。金か、或いは屋敷のメイドならさせてくれるでしょう」
「そう話すと、本当に女みたいね」
「…これを。合言葉は、【遙か彼方に】」
 星宮玲のペンは、実は特注品である。星宮にとって魔法が使いやすいよう、陣が埋め込まれている。あれ一本を持っているだけで、とりあえず『僕』は何事にも対処できた。でもそれも、今となっては足がつきやすい品でしかない。いままでも、そしてこれからも魔法はほとんど使わないだろう。魔法使いとして、生きないのだから。
 円城寺がこれからどうするのかはわからない。正直興味も無い。それでも彼女が喜びそうなのは、この二つぐらいしか思い浮かばなかった。今この時、叶う限りの協力を仰ぐために。
 彼女のありがたい支援は淡々と続いた。髪染めも滞りなく終了し、化粧を教わる。円城寺の持つ洋服のうち、できるだけラインの出ないゆったりとした服を3着ほど貰った。
「……レイ。私は、権力がほしいわ。あらゆる人間を見下せる存在になりたい」
「私はもう権力を持っていませんよ。貴女に譲ることも出来ません」
「知っているわ。…だからね」
 彼女自身が綺麗に整えた髪を撫でられる。イスに座って姿見越しに円城寺の様子を伺った。一度失墜した彼女が、今一体何がほしいのか、私は計りかねている。残念ながら星宮家の椅子はあげられない。あれは長兄のものなのだから。
「……あなたには何の期待もしていないのよ。暇になったら、このペンを使わせてもらうわ」
「…はい。ご自由にどうぞ」
 ありがとう、円城寺さん。そう言った私に、彼女は薄く微笑んだ。その腹の中で一体何を思っているのかはわからない。――これこそが、今私が捨て去った、『僕』の笑顔なのだと実感する。こんな風に他人を振り回すことに長け、結局は自分自身すら見失った。『僕』は一体何を思って笑っていたのか?何に怒っていたのか?感情が薄っぺらで、何の記憶も無い。大切にしておきたかった記憶も、もはや捨て去った。
 願わくば、彼女が自分を見失わないでほしいと、思う。
 万感の思いを込め、私は微笑んだ。
「ありがとう。…さよなら」
「さよなら。レイ=メテオ」


 後は特に語ることもない。
 私は船に乗り込み、王国へ亡命した。すぐに男に戻りメテオと名乗った。交易と占いで生計を立てて数年を過ごし、とある村に居を構える。そこであっけなく魔法使いと露見し、あっけなく死ぬ。
 それが星宮玲の最期だった。アキラと名乗り、レイと名乗り、メテオと名乗った男の最期だった。
 男は死の間際に一言残した。
「ペンは家へ帰っただろうか?」

2011/08/22