隣人
「斎さん」
「…なんだ」
「お手紙ですよ。セントラルからの」
 無言で手を差し出すと、そこに白い封書が乗せられた。手紙を持ってきた彼女の顔を少し見て、…すぐに目を逸らした。彼女は何か用かと問うたが、俺は何も答えずに首を振った。
「下がれ」
「はい」
 封書には、セントラル警備の判が押してあった。


 曰く、弟が失踪した。
 3年間マメに報告をよこした弟がぷっつりと音信不通になって、予感はしていた。アレは大人しくしているような人間ではないし、期待に応えてくれるような人間でもない。きっといつか、こうなるだろうと思った。
 俺の手の届かない海の向こうで、二人とも勝手な道を進む。俺の弟は二人してよく出来た弟だ。数年前は決して認められなかったことも、今なら穏やかにそう考えられる。
 貴族であること以外に、俺にやるべきことなんてないし、やりたいことがあったことも無い。けれど今俺は無為にこの豪奢な部屋に縛られていて、同時に幾十数名も縛り付けている。果たしてこの屋敷に意味はあるのだろうか。弟たちが勝ち取った道こそ…そんな問いこそ無意味だ。俺は一人で首を振った。馬鹿らしい。

(……うらやましい)
 少し、羨ましい。そう思った。
 この屋敷に帰るほかに、行くべき道を模索するアレらが。
 また或いは、この屋敷で笑顔で生きていける彼女が。

 小うるさい母さえ黙れば、彼女だって解放してやるのに。メイドたちもみな母の手駒だ。当主だなんて、体面ばかり。俺一人では、何一つ決定することは出来ない。俺の独断は、決して許されない。
「つまらない人生だな」
 玲め、余計なことをしてくれる。おかげで少し、疲れた。
 広いガラス窓越しに天を仰げば、次男の嫌いな明るく眩しい青空が広がっていた。

 コンコン、と小さくノックがあって、俺の返事と共に彼女が現れた。
「お茶でも入れましょうか。…お仕事は終わりですか?」
「……メイドのようなことを言うな。お前は従者ではない」
「あら、そのつもりは無いのですが…。申し訳ありません」
 くすくす、と上品に笑われる。俺が苛ついているのもわかっているだろうし、俺もわけのわからないことを言った自覚がある。居た堪れない。それもこれも、玲が変なことをするから。
「……玲がセントラルで失踪した」
「そうですか…。玲さんが、失踪…。それで、どうなさるんですか?」
「勘当だろう。アレを呼び戻す手間なんて考えたくもない」
 俺は肩をすくめる。彼女は少し困ってみせた。
「よろしいのですか。……そんな風に、切り捨ててしまって…」
「構わんさ。アレもそれを望んでのことだ」
 彼女を見下ろして、俺は思った。綺麗な目だ。俺には、彼女が一体何を見ているのか、いまいちわからない。

「お前も、望むならどこへだって行かせてやる。母はどうにかしてやるぞ」
「!」

 ふと口をついただけだった。彼女に、他に望む場所があるとは思っていない。でもそれは俺がわかっていないだけかもしれない。彼女は良く出来た人間だ。行き先など、いくらでもあるだろう。
 だが、それを聞いてハッと俺を向いた彼女の形相は少しおかしかった。怒りなのか、哀しみなのか。言葉がつかえて出ないといった風である。俺は彼女のそんな顔を見たことが無い。
「思うところがあるようだな。聞いてやる。言え」
「……」
 緩く首を横に振って、彼女は俯いた。
「おい」
「……あなたが、斎さんが、私に笑わずにいらっしゃるのは」
 唐突に一体何を言っているのだろう。それは、おまえが。
「それはお前が、無理をしなくていいといったのだ。やはり笑っていた方が円滑だというのなら」
「いいえ、…いいえ。私が貴方に笑ってほしいと思うのは、決してそんなことを言っているのではないのです。……私に他に行きたい場所などありません。貴方がこの家で笑わずに済むように、私はこれからも斎さんのお傍におります」
「…わからん奴だな。こんな顔をして」
 俯いた顔を持ち上げれば、綺麗な瞳に涙が溜まっていた。それでも泣くまいとする姿はなんと健気なことか。俺には理解しかねる努力だ。
「ふふ、斎さん。くちづけで、なぐさめて、くれるのですか?」
「……わからんな」
 更に上を向かせて緩く口付けると彼女はとうとう涙を零した。
 唇が震えていた。
 結局いつまでも泣き止まないので、俺は涙を拭っては口付けを繰り返した。
 ようやく涙がおさまると、彼女は最後に小さく言った。
「ごめんなさい」
 そうしてそそくさと部屋を出て行ってしまったのだ。

(貴方はちっとも私を分かってくださらないのに、変なところばかり優しくて、気が利くのね)

2011/11/13