冷たい指
 彼は、私に触れようとしない。
 自然に手を引くことはあっても、自然に頬を撫でることはない。自然に頭を撫でることはあっても、キスをすることはまずない。

 初めてキスをしたとき、彼は小さく「すまない」と謝った。二回目の時には、「すまん」と。三回目は何も言わなかったけれど、それを指示した夫人に険しい視線を向けた。
 私は、……彼が私を無体にすることはないと知ったから、こう大切にされて悪い気などしないのだけど、彼にとってそれは大したことじゃない。「構いませんよ」といえば「だが嬉しくはあるまい」と言う。
(ほんとうは嬉しいのだと言ったら、どう反応するだろう)
 そうは思うものの、まだ少しそれを言うのは怖い。彼の希望に添えない時にあの人がどう思うのか、私にはわからない。
 彼は、世間一般で言われる愛情表現に値するような行為は、私の本意で無いと思っているのだろう。だからキスをする必要がある時(たとえばパーティや、何か他人へ証明する時)は、ひどく遠慮がちにそっと触れる。それがあまりにおっかなびっくりで、私はそんな彼の様子をつい楽しんでしまう。
 おそらくこれら行為の数々は、彼の本意からも外れているのだろうと、思う。でなければ、こんな、…こんなにも嫌そうな顔をする道理などないのだ。

 今だってそう。大きなパーティで馬鹿な御曹司が言い出した。愛の証明だ、いずれの夫婦の愛が一番なのか、と。その流れが随分会場いっぱいに広がってしまって、こんな酔っ払いどもに絡まれている。会場中のパートナー同士が抱きしめあって、キスをして、愛をささやく。主催にそれを見せ付けては、言い出した馬鹿は学生か何かのようにわいのわいのと楽しんでいる。
 この展開に苛立つのは十分解る。心の底から湧き出る不愉快を隠したくない気持ちも、けれどそれをみせられぬ伯爵の体面も。あぁけれど、その表情を私にだけ見せるというのは、あまりにも、…あまりにも、無防備ではないか。つい面白くなって、笑みが漏れた。拗ねたように視線を逸らす様子を見て、なぜかどきどきする。やがて端から順が回ってきて、彼は小さくため息をついた。
「香乃」
「はい」
 くいと顎を持ち上げられて、目を瞑った。
 キスなんてほとんど衆人環視の中でしかやらないものだから、そういった視線は沢山感じてきた。慣れるものでも、慣れたいものでもないけれど、耐えることはできるようになってしまった。ぎゅっと目を瞑って、少し待つ。
 やがてそっと唇が触れた。一応趣旨に沿っているのだろう、いつもより長く、少し角度を変えて二度、三度と触れた。少しのけぞったら、頭を抱えるように抱きしめられていつもよりもぐんと彼が近くなる。どきどきした。――くらくらした。
 触れたときと同じようにそっと温もりが離れていく。それに合わせて瞼を開けると、じっと彼が私を見ていた。珍しい、いつもすぐに離れていくのに。頭から肩に回った手も解かれる気配はない。
(……?)
 顎に触れていた手が、少し火照った頬に移った。冷たい指が心地良い。頬をするりと撫でて今度は首筋に触れた。どきどきして仕方なくて、首筋の手のひらから私の緊張が直に伝わっていた。そしてもっとどきどきする。
「……」
「……」
 しばし見つめあった後、呆れたようなため息をつかれた。
「…帰るぞ」
「え?」
 くしゃりと頭を撫でられて、呆然とする私を置いて彼は騒ぎの主催と、その親のパーティの主催に挨拶に行った。私も行かなくては、と思う頃には手短過ぎる挨拶を済ませた彼が戻ってきていた。理由を問う前に彼のジャケットが肩にかけられた。暖かい。ふと少し肌寒かったことに気付く。そのまま手を取られて隣を歩いた。珍しいことばかりだ、いつもは彼が前を歩いて、私が少し後ろをついていくのに。そして、随分急いで挨拶を済ませたにしては歩調は随分ゆっくりだった。ドレスの歩幅に合わせてくれているようで、私はとても歩きやすい。
「……あの、斎さん?なぜ、」
「お前は」
 ゆっくりと長い渡り廊下を歩きながら、ちらりと視線が交わった。
「…熱があるならそうと言え」
「…………」
 言葉も出なかった。
 病人を連れまわすつもりはない。大体、無理はするなと言っていたはずだが。彼の小言が右から左へ通り抜けた。足が止まりそうになるのを、ゆっくりと気遣うように歩調を合わせた上で引いてくれる。瞬きを何度もして、何か言葉を出そうとして、それでも言葉は出なかった。
「まさか、本当に自覚がなかったのか」
「は、…はい……」
 顔が火照って、頭が真っ白になる。あぁもしかして、これも半分は熱のせいなのだろうか。そう考えると少し合点がいった。
 おろおろとする私をみて、彼は少しだけ笑った。
「帰って寝ろ。治るまでは、何もしなくていい」
「はい……」
 私を引く手に少し力がこもって少し近づく。
 冷たい彼の手に、じんわりと温もりが移っていった。

2012/05/24