星の子
 その昔、弟が俺達を占ったことがある。
 俺が中央の孤島に行く直前の話だ。当時、次男はすっかりベッドと一体化していて、歩く訓練を義務付けられたほどだった。三男は口が達者な3歳児で、人を見かけては駆け寄ってくるうるさい子供だった。
 結局、俺達三兄弟が揃って話したのは、この時期だけだった。


 俺は定期的に次男の、つまり遙の元を訪ねていた。そうしなさいと言う母の言葉によるものだったが、俺自身も別に苦に感じていたわけではない。些かの世間話を振っても俺たちの間で話が盛り上がることは無く、却ってそれが楽だった。理解が及ばないことと苦痛は同義では無いと知った。見張りのいない部屋での沈黙は、案外悪くなかったのだ。
 その日、遙の部屋には先客がいた。1人で楽しげに喋っているのは玲だ。遙は無邪気な弟の言葉にすら、思い出したかのようにたまにだけ胡乱な返事をしていた。
 俺が部屋に入るとまず玲が振り返り、案の定遙はこちらに見向きもせずに読書に励んでいる。俺もまた、挨拶もせずにソファに腰掛けた。
「斎兄様こんにちは。また?ひま?」
 ぴたりと会話を切って(どうせ誰も聞いてはいない)、玲がこちらを向いた。
「こんにちは玲。そうだ、また私はこれから読書をするから、邪魔してくれるな」
「わかった。読書ね?」
 わかっちゃいない。この幼児はわかっちゃあいない。またあの手この手で遙の気を引くのに煩くなるのだ。
「……」
 それでも俺は構わず本を広げた。玲の矛先が俺に向かわないなら藪をつつく必要はない。
 母が望んだものとは違う、実りの無い時間を過ごす。この弟から得られるものなど、挨拶の不要な人間がいるということぐらいだ。知識の方を盗もうとしたこともあったが、まるで答えない弟に教えを乞おうなどというのは不可能だと悟った。
 実りが無くても母には何も言わなかった。ささやかな読書の時間を奪われるのは嫌だったから。だから、
「占ってあげる」
 唐突に、
「二人の、将来とか」
「ほんと?!」
 唐突に、声が響いて、追い掛けるように玲の甲高い喜びが聞こえても、なんと反応したらよいのか俺には分からない。俺がやっと顔をあげるのと同時に、遙が本を閉じる音が聞こえた。
 かくして俺のささやかな読書の時間は消えた。



 遙は本を退けて、ベッドを降りた。靴も履かずに、立つ。部屋の中央まで歩み出る。
(……立った)
 ひどく衝撃的だったのを覚えている。当時の俺は遙が立ったのを見たことがなかった。訓練をしている、と聞いてはいたが、アイツに足があるのかどうかすら、自信はなかったのだ。
 遙が両手を前に広げると、どこからともなく水が集まって球になった。人の頭ほどの大きさの、きれいな球。俺がやるよりよほど安定している。俺の魔法は《水属性の面》だが、こうもブレないまま維持するのは至難と言える。
(魔法にかけてはやはり)
 胸中で唱えながら、じわりと何かが首をもたげた。
(遙には、魔法の才能がある)
 称賛を唱える。そうすることで保たれるものなど、意識しないように、慎重に心を鎮めた。
「兄様、触って」
 遙が差し出す球に手をかざす。

 星宮に伝わる星占いとは、星空や星座を占うものでは無い。星と称する魔力の塊の変化を占うから、星を占うという。またあるいは、占いが終わった時の魔力の散り方を星のようだと言う話もある。
 空を占うなら、外でそのままいればいい。大気の流れに、マナの流れに逆らわずにいれば魔力は変容し、人には感知できないものを形にする。例えばそれが誰か何かであった場合、触れることによってマナを感知し、やはり形を占うようにする。
 俺が以前やったのは母のパーティの如何だったが、随分時間がかかったくせに結果は散々で、正直二度とやるものかと思ったものだ。
 そんなことを思いながら、そっと触れた。
 少し触れて、水の冷たさを感じたのは一瞬だった。
 みるみるうちに水は姿を変えて、奇妙な形で浮いたまま波紋が揺れている。細かな水泡が上部に密集していて、まるで蜂の巣だった。ゆらゆら、どこから動いているのかわからない波紋が揺れ続けている。波紋と共に、全体のシルエットが風に吹かれるようになびいていた。
 水を眺めながら、遙は一人で相槌をうった。俺には見えないものを、遙は視ている。

「兄様は、木だ。細くて若い。でも実が一つある。花も咲いてる」

 詩でも読み上げるように、占いは始まった。
「あぁでも、これは兄様自身ではないみたい。根元で寛いでる獣がそうかな。木に帰ってきたんだ。満身創痍で帰ってきて、傷を癒してる」
 俺はこの占いを軽んじていた。自分でやれば明日の天気も分からないものを、将来なんて占われたところで重く受け止めるはずもない。
 なんせ俺には木にも獣にも見えない。
「兄様はね、右が無い。右肩から右顔面にかけてぽっかり欠けてる。多分これから失うことになるよ」
 だが、
「それでも若木を殺してはいけない。帰る場所を失えば、飢えを癒す術は無い」
 謳うような語り口に、妙に胸騒ぎを覚えた。
「若木というのは何だ」
「さぁ?でも大事なものなんじゃないの。すごく丁寧にしてるから」
「《獣》が、か」
「違う。若木が、だよ」
 遙の集中が切れるに従って、水は音も無く消え去った。
 俺の中に、にわかに不安を忍ばせて、得体の知れない胸騒ぎを残して、水とは思えぬ軽やかな残光と共にふわりと大気に紛れた。

 すぐにもう一度、遙は球を作った。玲がそれを、目を輝かせて見ている。水球を玲に差し出そうとして、遙が止まった。
「あ」
 間抜けな遙の呟きと同時に、玲が触れるはずだった球はかき消された。
「は、遙兄様?」
 俺の目から見ても、玲の動揺は普通ではなかった、と思う。目を疑っているうちに、遙が呑気に改めたので俺が長くその顔を見ることはなかった。
「間違えた。お前はこっちだね」
 現われたのは雷球だった。

 その頃の玲はまだ話せるようになったばかりで、魔法を使えるようになるにはほど遠かった。
 遙が何を思って雷球を差し出したのかは分からない。二属性を持つ遙が、単純にもう片方を試してみたかっただけかもしれない。だが遙は分かっていたのだと思う。玲が雷球に触れた途端、捻れるように形を変えたそれは、確かに玲の本質を示していた。うねり、伸び、絡まって、遙に噛み付いた。バチバチと音を立てる雷の蛇が、遙の喉元直前まで迫っている。喉仏に牙をかけた状態で、ぴたりと止まって、弾ける雷だけが存在を主張していた。
「玲、お前は、……糸?いや、線かな」
 常のままの声音が、いっそ異常だった。そして、アレを糸だの線だのと称する感性もまた、俺には理解できなかった。
「細くて長いが動かない。繰られることも、投げられることもない。お前はむやみやたらと落書きを増やしているみたいだ」
 玲は満面の笑みで聞いていた。余程嬉しいらしい。楽しそうな玲に頓着せず、遙の占いは続く。
「線に意味を求める時、他人のためにしてはならない。己の為のものだと心得なさい。別のものに委ねれば、線の繰り手はいなくなる」
 俺には、玲の線は無意味なものだと、聞こえた。誰か何かの為ではならないと言うのは、それはきっと酷く難しい注文だ。他人の占いの結果を聞きながら、的外れな思考を彷徨う。
(若木。花。獣。右。――欠けた右)
 己の為の力とはなんだろう。蛇でも糸でもない《線》とはなんだろう。果たしてそれは、繰る、と称するようなものか。
 遙がまたあっさりと占いをかき消して、蛇は悲鳴のようにバチバチと音を一際大きくして捩れて散った。更にもう一度、遙は何事も無かったかのようにまた綺麗な水球を作った。一体何を占うのかと問うより先に、浮かせている水球に遙自身が触れた。

 球が、揺れて、割れた。ひび割れて、それがまた2つの球になって、更に4つ、8つと数を増やしてふわふわと浮いている。だがそれを見て、遙は眉間に皺を寄せた。球がなおも分裂を繰り返し、数もわからなくなると、嫌そうに首をかしげて、やがて水球は視界に映らぬ細かさとなって大気に紛れた。
「僕は、わからないな。玉、球、それは分かってる。他は、何も、……残念」
「急に占いなんて、どうしたんだ」
「別に。占いの本を読んだからやってみただけ」
 遙が先ほどまで横たわっていたベッドに、確かに星宮の本が投げ出されている。では遙は、今日、たった今知った星占いを"読んだ"というのか。円を維持するのも容易いことではない。占いを読むのはもっと成し難い。それを、ただ、たった今。
 ざわりと心が揺れて、あわてて首を振った。違う。そうではない。そんなことを抱いてはいけない。俺は遙の兄だ。長男だ。跡継ぎだ。
 唱えれば唱えるほど、無意味だった。遙の才能を、認めねばならない。
「遙、俺がお前を占ってやろうか」
「できるの?」
 ぐさりと刺さる。だが、才能一つに屈してはならない。俺のこれまでの人生は、占いとは離れたところにあった。
「お前がやるほど何かを読めたことは無い。それでいいなら、」
「やるやる。やって」
 能天気な声に頷いて、俺もまた目前の空中に水を張った。球ではない、俺の面は厚みを維持することが難しい。だから、いくつもの円を風車のように重ねて、球に見立てる。
 実際問題、占いをするのに球でなければならない道理は無い。けれど体積が必要で、マナの変化を表すには球の形が最も優れている、と言われている。曽祖父は立方体で占ったという。できないわけでは、ないのだ。もっとも、厚みや体積のために何枚も面を作らねばならない手間は変わらず、俺にとって不得手な分野であることはどうしようもない。
 中心を軸に、同じ大きさの円の角度を変えて重ねていく。遙が作った球より些か小さい、片手に掴めそうなものが出来上がった。
 そうして作った球のようなものは、くるくると俺の手の平で回った。なぜ回るのか、俺は知らない。ただ、この形にすると決まってひとりでに回りはじめた。極々微かな力に回されているようで、止めるのは容易にできた。
「へぇ」
 遙が触れた。
 回転している円に、更に丸い穴が開いて、穴の分の小さな円がするりと抜けて落ちた。
「もっと長く触れていろ」
「そうなの?」
 一度離した手を、また水に寄せる。遙が触れていると、少しばかり回転が早くなった。
 一つしかなかった穴が、一つ、また一つと数を増し、同じだけ鏡のような水の板が落ちてゆく。雨が降るように、砂上の楼閣を崩すように、じわりじわりと形を失っていく。触れてなければならないのは、俺がそれだけマナに鈍感だという話だ。遙ほどわかりやすく反応するような繊細さは持ち合わせていない。
「遙は、球、だな」
(だから俺は星占いはとても苦手だ)
 楽しげに占いを眺めていた遙が、視線をあげて俺に笑った。分かり切ったことを言うな、と、嘲笑っている。
「いくつもの球が転がり落ちて、壊れている。……俺にはそれ以上のことはわからない」
 ふぅん。遙が小さく相槌を打って、
「そっか」
 それで終わりだった。
 むしろ玲の方が遙を真似て相槌してくるので、無視するのに労力を要した。



 遙はとんと興味を失って、そのままベッドに戻るや否や、また読書に没頭してしまった。
 一方の玲は興奮冷めやらぬといったふうで、あれはどういう意味だ、これはどういう意味だと先程の占いについて質問を浴びせている。無論、あれだけうるさい猛攻を受けてなお、遙は速度を落とすことなく頁を進めていく。
「……」
 俺は呆然と成り行きを見守ってから、最初に読んでいた文庫を手に取った。そのまま踵を返す。
パタン。
 扉を閉じると、廊下の空気が少し肌寒く感じた。扉の向こうの猛攻も、遠くに置いてきた。微かに響くだけで、他に人の気配は無い。扉にもたれて、一つため息をついた。存外、深くなった、ため息。
 喉まで出かかっている、気持ち悪さがあった。
(妙に虚しくて、吐き出したくて、でも見せたくない)
 虚しい。胸中で反芻する。
 虚しい?少し違う。
(虚しい、だから、……だから、何か、吐き出したいものがある)
 自分の感情を持て余すほか無く、結局諦めて、もやもやを抱えたまま俺は廊下を歩き出した。


(そうか。玲は遙のために線を引いたのか)
 不意に思い出した遠い記憶から、ゆったりと意識が浮上する。
 執務室の硬い椅子だった。
 今になって思えば、遙はこれ以上無いほど的確に予見していた、のだろう。戦場から戻ってきた俺には香乃が必要だったし、玲は結局戻らなくなった。
 幼い玲がよくよく覚え、12歳になってまで自覚を持ってその人生を選んだとは考え難い。俺が気付いていれば、言えただろう。――言ったところで、何かが変わったかは計りかねるが。今更ながら、鮮明に遙の言葉を思い出した。予言は既に完了している。今更心得たところで何にもならないのに。
コンコン
「斎さん、香乃です」
「入れ」
 静かに扉が開いて、妻は小さく失礼しますと呟いた。
(これが、私の、《若木》か)
「どうした」
「明日の予定の確認を、と思いまして」
「明日?……あぁ、舞条がまた晩餐をするんだったか」
 何か粗相が無いように、不用意な発言をしないように、と事前に確認するようになったのは、妻が言い出したことだった。彼女はそれぞれの家の関係や噂に、非常に疎い。勿論、日がな一日中屋敷にいて娘の世話をする生活をしていて噂に詳しいわけが無い。特に禁止をしているわけでもないが、彼女自身の交友関係は年間を通しても片手で足りる程度しかなされていない。その中で、致命的な失敗をしないだけの指示を俺が出す。妻は俺の望むとおりに振舞うのがうまい。
 明日の主催、舞条に不信は無い。近寄りたくない多賀は遠征で外しているのは確認済みであるし、今回は何処か何かの頼みがあるわけでもない。ただいつも通り当たり障り無くしていればいい。言おうとして、目が合った。
「……」
「……?」
 柔らかい茶色の瞳。同じ色の髪の毛が後ろで一つに束ねられている。俺が戻ってきた頃は長かった髪が、今は肩下程度で切られている。切った理由は、なんだったか。聞いた覚えはあるがどうにも思い出せない。
「あぁ、舞条、だったな。今回は顔見せだ。前回は欠席したろう、あちらの夫人に元気な姿を見せてやれ」
「そうでしたね。もしかして、祝も連れて行くのですか?」
「無理なら乳母に預ける。どうだ」
「当日になってみないと、なんとも。ですが、難しいかもしれません。あの子は人見知りするので……」
「お前の判断に任せる。無理はさせなくていい」
「はい。分かりました」
(――でも実が一つある。花も咲いてる――)
 彼女の緩く笑った表情は、心地がいい。俺相手にだけ、緊張のほぐれた顔をしているのが分かりやすく、俺も、少し気が抜ける気がする。実が一つ、というあまりに直接的な表現に遅れて気づいて、苦笑がもれた。そうか、一つか。なら本当に、もう妻に無理をさせる必要もなさそうだ。遙が言うのなら、十中八九"当たり"だろう。
(――大事なものなんじゃないの。すごく丁寧にしてるから――)
「なぁ」
「はい?どうかされたんですか。先ほどから何か……」
「丁寧に、接しているのか」
「……は?」
 きょとんとした妻が首をかしげるのと同時に、俺は頬杖をついた左手でそのまま口元を覆った。また変な聞き方をしたな。どうにも彼女が相手だと何かと省略したがるらしい。悪い癖だ、と胸中で戒める。
「昔弟に占ってもらったことがあってな。俺の妻は俺に対して丁寧だ、と」
「えぇと……そうですね、蔑ろにしているつもりはないですけど……」
「もう少し気を抜いていい。無理のないようにしろ」
 考える前にするりと言葉が出てきて、言ってから我に返る。
(俺は、彼女に、何を望んでいるのだ)
 無理をするななどと、まるで、俺は無理をしていないかのような。いいや、確かにそうだ。俺は妻といるのが一番落ち着くし緊張も無い。では彼女はどうかと考えれば、俺に自信は無いのだ。無理をしているような緊張は感じないが、だからといって気安いわけではなく、若干の遠慮も感じる。
「私、無理なんてしていません。今、結構幸せなんですよ」
「……ならいい。変な事を聞いた」
「ふふ、構いませんよ。ではまた後ほど」
 彼女の後姿を見送って、閉じた扉を見つめる。
(――帰る場所を失えば、飢えを癒す術は無い――)

 妻を失った自分と言うのは、とても想像できない。

2014/08/19