無音の【アナザー】
 ぽろぽろと地面に滴り落ちる大粒の涙。そこにたたずむ小鷹。太陽から受けた光によって、校庭には大きな影が落ちている。
 ぽろぽろ。ぽろぽろ。
 もはや動かない。小鷹は疲弊していた。なにもかも投げ出したかった。なにもかも取り返したかった。なにもかも元に戻りたかった。なにもかも消え去りたかった。いまだに感情は揺れ動いて、見つけてほしいと思うのに、見られたくないと思う。時間が経てば経つほど、振り幅は大きく大きくなり、根こそぎかき出した勇気と同じくらい後悔が生まれてくる。
 校庭にさす影が、現れたり消えたりする。
 小鷹の後悔とともに、まるで点滅するかのように姿が透けて戻ってを繰り返した。小鷹自身にそれを気にかける余裕はない。緩やかに、段々と消える時間が長くなって、――そして消えた。


(こんな力、なければよかった)
 呟いたわけではない。そもそも小鷹の唇は随分と力を失っていて空気を震わせない。けれど彼は夢現な思考の中で、確かにそう思った。力がなければ、戦場に出ることも、会長を主と崇めることも、こんな性格になることも、みなと違う教育を受けることも、全て全てなかったのに。
【なるほど。では返していただくとしよう】
 声が響いた。特に何を見ていたわけでもない視界が真っ白に弾けて、男か女かもわからぬ声が響いた。鼓膜を振るわせたのか、そうでないのか。なにもかもが曖昧な世界。小鷹自身の影だけが、まるで永遠に続くように、ひたすらに前へ伸びている。
【貴様からの契約破棄となる。我には罰を与える権利が生ずる】
 正面におぼろげに浮かび上がる輪郭。何の生きものなのか、生きていないのか。人の頭ほどの丸い何か。ひたすらに白い世界で、ソレが発光しているのだけわかる。声はクククと笑った。それに合わせて、発光しているソレも小さく揺れる。
【17代か。案外短かったな】
 小鷹家、九郎。九郎という号が指すのは、小鷹家が始まってからの9代目ではない。小鷹家が物憑きとなってから、物憑きの数を数えていたに過ぎない。小鷹家はもっともっと昔からある。そして、物憑きは2代に一人。たかだか17代前が、光の精霊に認めてもらった、かの一郎の代だ。それをぼうと考えて、ふと小鷹は気づいた。そうか、コレが。
【……まぁよい。我は貴様に罰を与える】
 この傍若無人で若くて老けた、性別も把握できぬ美しい声が、光の精霊なのか。精霊は小鷹家の前に決して姿を現さなかった。初代が単身で加護を得たほかに、光の精霊を見た者はいなかった。小鷹家の最も重要な点であるにも拘らず、一切語られなかった精霊という存在。それが、この声。
【貴様に、わが力たる≪光≫を一切与えぬ。それが罰だ】
 光の精霊と合間見えたことは、けれど小鷹には別にどうでもいい無感動な出来事だ。どことも知れぬ真白の世界も、声が告げる罰も、契約破棄も、なんとなく肌で感じるものはあれど、やはりどうでもいいことだった。なにもかもから解放されたい。なにもかもを忘れたい。なにもかも考えたくない。心は驚くほど無心で、辛うじて音を拾っていた。
【まずは、今まで通りに】
 丸い発光体が、数度にわたり更に瞬いた。感じる違和感。直線に前へ伸びていた影が無い。世界は本当にただの白だけとなった。
 ――あぁ、これは。
 やめてくれ、と思った。眼球を動かすだけではまったく自身の体は見えないけれど、そういうことなんだろう。こんな力無ければいいと願ったのに、なのに、どうしてそうなるんだ。ちがう。ちがう。ぼくがもとめたのはこんなことじゃない。
【ほざけ。貴様には寸分の光もやらぬ】
 突如世界は真っ暗になった。声はどこからともなく響いていて、けれどどこにも何も感じない。こわい。そう。怖い。小鷹は怖くなった。固まって動かなかった唇を必死に震わせるけれど、決して聴覚を刺激することは無い。こわい。こわい。こわい。
【貴様の体は光を反射せぬ。貴様の体は光を認識せぬ。我はこれで満足である。さらばだ。猛禽気取りの愚かな雀め】
 吐き捨てるように告げて、声は消えた。それと同時に今までまったく聞こえなかった、風に葉が揺れる音が聞こえた。それと波の音。遠くからかすかに人の声。頬を髪が撫ぜる感覚。頬を伝う冷たい粒。けれども世界は暗闇のまま。一切の白の無い、黒だけの世界。いやだ。こんなのはいやだ。だれかたすけて。ぼくをみつけて。ぼくをだきしめて。

 ぼくをあいして。
「――っ!」

 震える唇を精一杯開いて叫んだ。つもりだった。
 耳は何も反応せず、波の音の中で時折さやさやと葉が擦れるだけ。人の声は徐々に遠ざかって、小鷹は脱力して膝から崩れ落ちた。今までの、光があったころの経験則からそう思っただけで、もはや自分の触覚すら信用できない。己が倒れる音がしたのか、していないのか。もしかして、耳も壊れてしまったのだろうか。本当に、自分には何も無い。もはや何も無い。いや、最初から無かった。ただ周りの者が「ある」と言うからあるつもりだっただけで、別に何も無かった。
 全身で冷たい土を感じて、すこしほっとした。使えない眼球を、瞼で覆う。全身から力が抜けて全てがどうでもよくなって、そして小鷹は思った。

(しにたくない)

 閉じた瞼からぽろぽろと涙が溢れて、鼻を横断して耳の方へ伝っていった。奇妙な感覚がくすぐったい。けれど手も動かない。震えもとっくに収まっていて、体が妙に軽い。
 おかしいな

2010/05/21