七日目

「…う……これは……」
「ん……」
 声が聞こえる。困惑した声。こつんと後頭部に何かが当たって、あぁきっと起きようとしているんだな、と思った。
「昨日、俺は……」
 あの人が答えを求めてる。私も起きなきゃ。質問に答えないと。
「んー……」
「…お前、まさか、そんなところで寝ているのか、おい」
 そっと、優しく、気遣うように肩を揺さぶられて、私の重い瞼もようやく開いた。日の光が眩しい。目前のテーブルとソファには誰もいなくて、背後に気配がした。私が起きたことに気付いて、肩に触れていた手がそっと離れていく。私は振り返った。
「…おはよう、ございます」
「……あぁ、…おはよう」
 呆気に取られている、ようだ。普段の仏頂面よりかわいい。
「すまないが、昨晩の記憶が曖昧なんだ。一体何があった?」
「特に、何も。斎さんは随分酔ってらっしゃったので、すぐソファに横になりましたよ」
 私は膝を抱えて眠っていたそのままの姿勢が辛くて体を伸ばした。筋が伸びるのがよく分かって気持ちいい。それを見た主人が、不機嫌そうに眉をしかめた。表情だけで、主人の言わんとすることが手に取るように分かるようだった。そういうことを当然だと思わない、優しい人だから。
「ではなぜお前は、そこで寝ていた」
「…えぇと、…なんとなく」
「俺がソファに寝たとして、お前が床で寝る必要はないだろう」
「…そうですね」
「……」
 問いがわかっても、答えに窮した。笑って誤魔化す。それを見て更に嫌そうな顔をしたけれど、私は本当に答えを持っていなかった。だって、酷く感傷的だった。人を呼ばずにソファに寝かせたのだって、自分もここに寝たのだって、論理的な思考回路なんて無い。感情任せのそれを説明する気は無かった。
「ただ、なんとなく、私がそうしたいと思ったのです。お気になさらないでください」
「…分かった、とにかく気にしない。だがもう…」
「もう?」
「いや、…なんでもない」
 多分、普段の彼はこんなに無防備じゃない。思うままに口を滑らせてそれを言い切らないなんて、そんな事しない。ようやくこんな会話ができたのに、今日が7日目だなんて、寂しい。
 少しなんてものじゃない。とても、寂しい。
「斎さん」
「なんだ」
「すみません、本当に意味なんて無かったんですが。そんなにご迷惑なら、もうしません」
 もうしません。まるで、次の機会があるかのような言葉。ただそれだけの、そんな小さなことを気にしてしまう繊細さが、とても素敵だと思う。
「………あぁ」
 主人の表情は、酷く複雑だった。苦虫を噛み潰したような顔なのは確かなのだけど、嫌悪とも怒りとも違うようだった。戸惑っているようで、けれど困惑の色は薄い。
 ソファに腰掛ける彼と、床に座り込んでいる私。丁度いい高さに私の頭があったのだと思う。多分。彼は私の頭にそっと手を乗せた。反射的に顔を伏せて目を瞑る。撫でる仕草があまりにおっかなびっくりで、不安げで。…なんだろう。これでは、なんだか。
(…なんだか、気恥ずかしい)
「……もう、しないでくれ」
 表情は伺えない。ため息をつきながら、優しい声が届いた。ゆるやかに私の髪を撫でる手は止まる事はなくて、それが余計に私の心に響く。……あぁ、これは。
(なきそう)
「…はい……もう、しません」
 俯いた頭はそのままに、目を開けて涙腺が決壊しないように祈った。湧き出る涙は、零れてはだめだ。もう何分か経てば、私は寝起きの目を擦りながらいつもの朝を過ごせる。
 けれども優しい手の平がとても暖かくて、私の祈りは空に消えた。
 落ちた雫は、音と共に私を包んでいたシーツに飲まれて跡を作った。染みは広がるけれど、彼に気づかれることはなかった。決して肩が震えぬように、嗚咽にならぬように、ただただそれだけに気をつけた。呼吸を鎮めることに精一杯で、身動き一つ取れやしない。
 馬鹿で、愚かで、ちっぽけだった。けれど、私にとって、そしておそらくは主人にとって、これが唯一、未来の約束だった。私たちにできる、ただ一つの誓いだった。
 今日、出発だ。私はこれから2年、この1週間の思い出を抱いてこの家で生きる。
 こんな大事な日に限ってこんなにゆっくりしていていいのだろうか。
 私の疑問は、ついぞ声にはならなかった。

 おそらくは時間にして数分、主人はようやく手を離した。とてもではないけれど、私は顔を上げることは出来なかった。離れていく温もりがこんなに恋しいなんて思わなかった。
 不思議だ。どうして、こんな。
「流石に、ゆっくりしすぎたか。…これから出陣式になる。メイドを呼ぶから身支度をしてくれ」
「あぁ、はい。わかりました」
「先に行く。……式が終わったら、すぐに荷をまとめるといい。学園との話はついている」
「え?」
 何を言っているんだろう。半ば私は本気だった。冗談として記憶の片隅に追いやられていた発言が蘇る。そういえば、冗談として流されたのではなかった。私が余計な口を挟んだから。
「…世話をかけた」
 ぱたん、と静かにドアが閉じられる。
 私は一人で愕然としていた。やはり私はまだ星宮姓にふさわしくないような錯覚。ただ一人全然関係ないところへ追いやられる感覚。そして、平和に日常を過ごせるというのに、それを喜べないこの不思議な心。
(いいじゃない。とても、いい案のはず。だって私、島の友人にろくな挨拶もしてない。やり残したことも多い。学園生活は、確実にこの屋敷よりよほど楽しい。これで、あってる……)
 必死に言い聞かせても無駄だった。無性に悲しい。置いていかれることよりも、追い払われることが悲しい。
 子も出来ない、実務も出来ないでは夫人だって扱いに困るだろう。ましてたかだか1週間の妻だ。戸籍上はともかくとして、これっぽちも一族として認識されていない。今の私は主人がいるから必要なのであって、それ以上の価値などない。
(……でも)
 主人の迷惑にはなりたくない。3年後5年後の印象が悪いのも望ましい形ではない。
(…わたしは)
 葛藤のうちにノックがして、メイドが来た。なんとか聞いて、理解して、返事をする。それが精一杯だった。返事のテンポが遅いのを見てメイドも怪訝な顔をしたけれど、そこに気を回す余裕はなかった。私はずっと葛藤していた。
 なんでこんなことで悩んでいるんだろう。
 この屋敷に来てから、誤算ばかりだ。主人との時間こそが、まさしく、誤算だった。
 ……へんなの。


 私がようやく準備し終えた頃、出陣式はほぼ終わっていた。
 メイドの言では、私と主人での所謂別れの挨拶があって、あとはもう出発するだけだという。勿論本来であれば私も式が始まるところから立ち会うはずだったけれど、昨日の今日では少し無理があったのだ。私が会場に駆け込むと、主人が颯爽と私の前に立った。
 これが正真正銘、出発前に話できる最後の時。
「……斎、さん」
「…香乃」
 かの、と呟く低い声が、妙に響いて聞こえた。そしてにわかに気付く。これはパフォーマンスだ。衆人環視の中で、はじめてこの人は私の名前を呼んでくれる。……それでも良かった。呼ばれた名が特別な感情を呼び起こす。こんな時なのに、そういう場合ではないのに、…嬉しい。
「私、信じています。貴方が、……貴方達が無事に帰ってくると、信じています」
「……あぁ。君の祈りに、応えてみせる」
「私がこう言ってはいけないのかも知れませんが……。どうか、ご無事で。それだけを父神に祈っています」
「…ありがとう」
 祈るように手を組んで、主人から目を逸らす。今の彼を見ていると、叫んでしまいそうだった。
(私の前で、心無い笑顔を、つくらないで。怖いのなら怖いと、怯えていいのよ。そんな、仕事を、しなくていいの。私の前では。私にだけは。ねぇ、斎さん……)
 斎さん。斎さん。私、寂しいです。怖いです。貴方が本当に帰ってくるのかどうか、やはり確信を持ってイエスとは答えられないのです。でも私は待ちます。貴方が望むとおりに、ずっと、ずっと待ちます…。だから、だからどうか。
「どうか君も」
 ふと、彼の冷たい指が私の頬を撫ぜた。大きな手の平がくすぐったい。親指が、顎に引っかかった。
(あ)
「息災で」
 思った時には、もう触れていた。
 ほんの少しだけ、掠めるように。実際に触れていた時間に対して妙にもったいぶるように、眼前の顔は徐々に徐々に離れていった。私はそれを呆然と見守る。
 嫌だとは、思わなかった。よくよく考えても同じ結論に至ったのだから、実際そうなのだろう。けれども私にとって、そもそもこの行為は夢か幻と同義だった。温もりを感じる暇もなく即座に離れた。ただ至近距離にずっと彼の目があった。それだけだったのだから。
「すまない」
 行為のすぐ後、ほぼゼロ距離の状態で彼は微かに呟いた。パフォーマンスではなく、私以外の誰にも聞こえないような声量で。唯一その一言が、あのキスが事実であったと私に訴えかける。
 するりと頬に触れていた温もりが去って、彼は屈んでいた背筋をぴんと伸ばした。ほんの一瞬、視線が交ざる。
 あぁ、これで最後なんだ。
 何度も思ったことを、また思った。
「待っています。ずっと、帰りを待っています。ですから、どうか……――」
「…あぁ。……行ってきます」
「いって、らっしゃい、ませ…」
 それ以上の言葉は出てこなかった。いかにも演技然とした表情をする主人に対して、私は極めて普通に、自然に、涙を流していた。見苦しくならないようにする。式に出席する妻として、私の最後の意地だった。
(朝から、情緒が不安定で、だから、だから)
 仕方がないのだ。
 振り返って隊に向かう背中を見て思う。今日だけ、今だけだから。きちんと貴方を見送って、そしてまたきちんと出迎えするから。
 頭の中で祈りの言葉を何度も何度も繰り返した。
 その分だけ、彼らが救われればいいと願った。

 幾つかの挨拶、合図、号令の後、一個小隊は整然と歩き出した。その背中が小さくなって消えるまで、私はその場から動けなかった。動かなかった。
 祈ることで救われるなら、どれほどいいか。そうしたら、私は世界平和だって祈るのに。
「香乃様」
 メイドに呼ばれて、すぐには返事が出来なかった。私に話しかけてると思わなかった。
 私の働かない思考とは関係無く、メイドに連れられて寒空の下から暖房の効いた屋根の下へ移動した。とにもかくにも私は休息を求めて、メイドも星宮夫人も是と答えた。
 もとより、彼が私の手を引いて歩いてくれたことなどあの部屋の中だけのことなのに、私を連れて歩く背中が彼でないことが今は無性に寂しい。部屋に戻って、一通り身なりを楽にして、私はそのまま寝室に篭った。朝食も取らずの式典だったけれど、とても食べ物が喉を通るとは思えなかった。昼食も、夕食もいらぬとメイドを突っぱねる。

 泣いて、寝て、泣いて、寝て、泣いた。

 気付くと窓の外は暗くて、そしてやはり私は寝室に一人だった。
 広いベッドで何にも構わず寝返りを打つ。
「……おやすみなさい」
 呟くと、返事が聞こえる気がした。
(聞こえるわけ、ないのに)
 天蓋を眺めるうちに、また涙がこぼれる。

 そして私はまた、浅い眠りに落ちた。

2012/01/15