六日目

 その日、私はこの屋敷に来てから初めてメイドに起こされた。
 時刻は朝8時。寝不足を感じるものの、目が覚めれば問題はないだろう。私はメイドに一言応えて緩慢と身を起こした。
「今日はどうしたのですか?」
「おはようございます。晩餐の支度がございますので、恐縮ながら声をかけさせていただきました」
「…そうですか」
 主人の昨晩の言い振りだと私にたいした出番はなさそうだが、それなりの身支度はするという。
(……あぁ)
 ふと気付く。星宮斎は結婚式を挙げていない。時間と準備と、世論の傾きもあったし、噂では当主御自らの必死の説得の成果であったという。ともすれば、例えその趣が兵士を主役にしたものであったとしても、今夜の晩餐は私が初めて顔を出す公の場となる。星宮家の気合の入りようは納得のいくものだった。
(あの人は、…斎さんは何も言わなかったのに)
 気付いていなかったのか、わざと黙っていたのか、確信は持てない。けれど後者だとすれば、私は何故黙っていたのかと言う問いをする前に、何故言わねばならなかったのかという問いに答えなければならない。頭の中で問答を繰り返すと、言わないでいるという結果もあながちおかしなことではないと思えた。

(……そもそも私は、斎さんが言わないことが、なんだと思ったのだろう)
 念入りに髪を梳かれ、香を焚く。何人ものメイドにとっかえひっかえ服を着せられて、辟易した頃に今度は化粧に移った。昼食を挟んでまた山ほどの洋服を合わせ、そして装飾品も合わせた。
 あれやこれやと何でも試すメイドたちに口を挟んでも良かったけれど、テキパキとしたメイド長に文句をつけるつもりはなかった。順序良く一通りのドレスを試した後で、薄い水色の落ち着いたドレスに決まったらしい。
(斎さんは、どんな気持ちで晩餐に臨むだろう)
 髪を結い上げられて、大きなルビーの髪飾りがつけられた。少し頭がくらくらする。仕上げとばかりにまた化粧をされて、ようやく終わる頃にはもう随分時間が経っていた。
 もう1,2時間もすれば晩餐になるというけれど、それまでは特にやることもなくやれることもない。恭しく『大人しくしていろ』と言ってメイド達は去っていった。私は一人、個室の椅子で手持ち無沙汰に窓の外を見る。空は徐々に赤から紫へ変わりつつあった。
(私は、どう振舞えばいいのだろう…)
 やることはない。うろうろして迂闊に装飾を崩すわけにもいかない。
 人のいない静かな部屋の外では、多くの人々が晩餐の支度をし、そして待ち侘びている。それが少し騒がしくて、少し羨ましい。
(……明日、そしてそれ以降。私は…)
 何度確認しても、時計の針はそれほど進みはしない。暇で暇で仕方がなくて、私は小さく口ずさんだ。
 祈りの歌。神を崇め、巫女に捧ぐ歌。口をついたのはそういった、魔法使いであればこその曲だった。何かを歌おうと考えたわけではないけれど、一番耳に馴染んでいたのがミサに使われるこの曲だったのは違いない。
 実家でもすぐ隣にあった教会の、壮麗な有り様は好きだった。学園でも、何かと通っていたように思う。けれど神であるとか巫女であるとかはあまり好みでなかった。彼ら彼女らが私たちにすることといえば、強要と強奪でしかない。試練だと云う、そういう表現が嫌いだった。
(いっそ巫女など絶えてしまえば、戦争もなくなるのかしら。…それは無理かしら)
 思いつく限り、適当に口ずさんだ。分からない歌詞など飛ばせばいいし、次の曲を思い出したらそっちを歌えばいい。そうでなければ、眠ってしまう。耳を澄ませて、羨んで、寂しがって、うつらうつらとしてメイドに怒られてしまう。
(約定は2年。私は、2年後、一体どうしてるだろう……)
 気付けば日が暮れようとしていた。


 晩餐は、私が知る限り最も質素だった。
 室内の装飾は元来以上のものは無く、楽団も驚くほど少ない。椅子は準備されているものの、立食形式であるから、全員が落ち着いて座ることもない。料理はそれなりのものを大量に出したが、質より量、といった具合だった。
 酒を持って豪快に笑う兵士たちを見ると、少し納得がいった。これは最後の晩餐だ。敵を消し味方を作る爵家のそれとは目的が異なる。今夜盛大に飲み明かすことこそ、この晩餐の目的だった。
「何を見ている」
 傍らから声がかかる。私は笑って小さく否定した。
 私の隣に立つ当主はしっかりと燕尾服を着こなして、パーティの装いでいつものように憮然と立っている。そして私もまた、過分に気合の入ったドレスで彼の隣を歩く。私たち二人だけが、妙に浮いていた。兵士たちも多少は身なりを整えての出席をしているが、伯爵家には相当しない。致し方ないことではあったが、主催が浮いているというのは変な心地だった。
「こちらへ」
 軽く肩を引き寄せられて、私は主人に少し近づいた。さきほどから入れ替わり立ち代り挨拶がきて、ほっと息ついたのも束の間、次の団体のお出ましらしかった。
 今日は仰々しいものではない。ゆっくりしていってくれ。そう繰り返す主人の隣で私は笑い続けた。

 そもそも、パーティの開催からして地味なものだった。主人は存分に寛いでくれ、とだけ言って乾杯の音頭とした。出陣前のピリピリした空気を覆い隠すかのように楽団が演奏を始め、沢山の料理が振舞われた。パートナーの出席が認められ、他に医療等で係わりのある女性も多く呼ばれているらしく、人々はこれを思い思いに楽しんでいる。こんなに和やかでいいのか、と言った私に主人は一言答えた。曰く、鼓舞するのは今日ではないのだ、と。
「……こんなものか」
 挨拶だけで相当の時間を使った後、ふぅとため息を聞いた。主人を見る。主人は、真っ直ぐ前を見据えたまま、けれど確かに私に言った。
「もう下がっていい」
「……」
「…聞こえなかったか」
 見上げてぽかんとする私を、主人はようやく振り返った。
「……は…あの、まだ始まったばかりでしょう」
 挨拶が済んだばかりなのに。いくらなんでも。私の言葉は吐き出される前に、溶けて消え去った。
「顔見せは済んだろう。…下がれ」
 主人はわずかに顎をしゃくると、衛兵を呼んで私の退去を告げた。そして促されるまま去るより他、私に出来ることはもうなかった。
 すこし、……さみしい。

 一通り装飾を取り、普段どおりの格好に着替える。そして軽く軽食を取って自室にて更に寝巻きに着替えた。
 静かな寝室で主人を待つ。ここ連日のことであった。けれど今日は、つらい。
(……そんなに、邪魔だったのかしら……)
 昨夜、そういう意味で帰れといわれたのではないと思っていた。勘違いだっただろうか。外は今でも宴が続いていて、物音一つしない部屋では、どうあっても響いて聞こえる。それが余計に気持ちを揺さぶる。
 だって、そもそも、今夜来るとは限らない。晩餐のあと、疲れて眠ったって誰も怒らない。考えれば考えるほど、今夜は来ないんじゃないかと思って、私が待っているのは無駄じゃないかと思って、悲しいのか悔しいのか、すこし泣きたい気持ちだった。
(でも。もし。万が一)
 万が一、主人が来たら、その時私がすっかり眠っていたらとても失礼だ。昨晩、主人は今夜のことを何も言ってなかった。来るとも、来ないとも。私が勝手に寝ることは出来ない。宴が終わって、…そう、1時間ぐらいしたら寝よう。
(それまでは……)
 一人なのをいいことに、ソファで膝を抱える。もうすでに瞼が下りようとしていた。今日は朝から騒がしかったから、私も疲れていたらしい。軽く頬をつねる。いたい。けれど目が覚めることはなかった。
(寝てはだめ……今寝れば…)
 あぁ、だめだ。そう思ったのは覚えている。

 すこしうるさかった。
 キィ、と音がして、その少し後に大きく扉が閉まる音がした。
バタン!
「…ん……?」
 音が煩くて目を開けた。同時に寒気がして、ぶるりと身震いする。そこでようやく、私がソファの上で眠ってしまっていたと気付いた。音の方、扉を見やる。主人が、閉まった扉に気だるそうにもたれかかっている。
「おつかれさまです。…いつき、さん」
 ソファから立って、彼を出迎える。2,3歩歩いて彼に近づいた。彼は動かない。近くに寄ると、むっとアルコールのにおいがした。これはもしかして、と寝ぼけた頭で思う。
「いつきさん?」
「……あぁ…」
 呼応した。なんの意味も成さない言葉であったし、返事としては失敗だったけれど、私の予感を肯定する足しにはなった。
(…酔っているのね……)
 吐息から、更にむせ返るアルコールのにおい。どれほど飲んだのか。ふらふらと千鳥足で歩き始めた彼が私の方へ来たので、思わず後退りした。そして一歩、また一歩と彼が進む度、私は下がった。
 どうすればいいのかわからなかった。肩に腕を回すのは躊躇われた。そもそも私が支えられるとも思えないのに、なんだか、…なんだか近寄りがたい。そう思うのは、私がパーティのことを引き摺っているからだろうか。
 ぐらり。
 不意に主人の足がもつれた。
「えっ」
「…っ」
「わっ、…ひゃあっ!」
 強かに腰を打って、頭も打った。痛い。その上、ぐったりとした主人が私に覆いかぶさるように倒れていた。重い。幸い彼自身にこれといった怪我はないようだが、どうも完全に意識が途切れている。身じろぎするのも、更に主人の下から抜け出すのも大変な苦労だった。
「大丈夫ですか?斎さ、ん…」
「…だい、じょう……だ…」
 とても大丈夫そうには見えない。私は途方に暮れた。とにかく抜け出して、上体を起こしたまでは良かったが、そこでなぜか主人に腕をがしりと掴まれた。酔って熱い腕が、遠慮の無い力で握ってくる。
(……あぁ)
 少し、眩暈がした。
「…あの、……斎さん?」
「……かならず、かえるぞ…」
 意図せず膝枕をするような体勢になっていた。横向きに倒れている主人は、ぼんやりと床に沿って視線を投げている。何を思って、その唐突な言葉が出たのか計ることは出来なかった。私はどうすべきか迷って、そして少し楽しくなって、主人の頭が落ちないように少し動かして、その髪を撫でた。
 だいじょうぶ。きっと起きても覚えてない。例えこれから先何十年の付き合いでも、こんな機会は無いかもしれない。これぐらいで怒られたりもしないだろう。そう自分に言い聞かせる。
「斎さん。…離してくださると、嬉しいのですが……」
 あまり、期待はしていなかった。酔っぱらいが大人しく従うとは思えない。案の定主人は、私の言葉に反応して殊更に腕に力を入れた。離すまいとしている。私の手首が悲鳴を上げていた。
 なにを、離すまいとしているのだろう。主人は一体、何が欲しくて私をつかんでいるのだろう。…私、を掴んでいるのでは無いのかもしれない。何か、誰かと重ねているとか、あるいは誰でも良かったとか。この人が必死になって求めているのは、一体何だろう……。
「…いくな……」
「斎さん?」
「……しなん……から、まっていろ…」
「…斎さん?」
 すぅ、と寝息が聞こえた。手首も、離れてはいないが力が緩くはなった。私はもうしばらく腕もそのままに髪を撫でて、彼が完全に寝入るのを待った。
(行くな、死なん、待っていろ)
 もういいだろうと思って、私はそっと彼の手を開いた。とにかく仕方がないので、一度彼の頭も床に下ろす。本当は、この時点で人を呼ぶべきだった。どうせまだ晩餐の片づけがあるだろうから、少し頼めば彼をベッドまで運んでくれただろう。
(でも、呼びたくない。…そんな気分だわ)
 私は主人の上体を起こして、それをどうにかこうにかソファに上げた。足まで全部上げたあとには息も弾んでいた。私はとにかく寝苦しくないよう多少体勢を整えて服装を緩め、ベッドのシーツを引っ張って彼にかける。それが、私にできる最上級の介抱だった。
(待っている、…えぇ、待っているわ。貴方の望むとおりに)
 跡取りがどうのと言って私を呼んだことこそ、彼は嫌だったのだろう。そういえば随分夫人を怒っていたかもしれない。まして、半ばもう帰らぬものとして夫人と引継ぎをしているはずだった。相当なストレスになっているに違いない。
(18の青年が、誇りの為に死にたいなんて思うわけ無いのに)
 私がほんの2日前彼に、待っている、と言ったのは大した意図は無い。彼が星宮家当主である間、つまりは約定の2年間、私に出来ることなどそれしかなかった。そして彼が死んだら私はどうしようかな、どうなるかな、と思っていたに過ぎない。帰ってきてくれるなら万々歳だけど、2年経つ前に星宮を捨てるか、それより後かの違いだと、どこかで思っていた。
(でもそれが、思わぬ意味を伴って主人に響いたのなら)
 私はもう一度、眠る彼の髪をなでた。さらりと短い銀髪が揺れて手から零れる。身じろぎもしないで深く眠る姿は年相応で、少しかわいい。
 私はベッドからもう一枚タオルケットを持ってきて、主人の枕元、ソファの下で膝を抱えた。一つ大きな欠伸をして、膝の上に頭を乗せる。
「斎さん、おやすみなさい」
 静かな寝息を聴いて、私も目を瞑った。

2012/01/15