四日目

 朝になって目が覚めると、隣に彼はなかった。
 もう日も昇りはじめている。隣に腕を伸ばすけれども、これっぽっちも温もりは残っていない。もう随分前に執務に戻ったのだろう。当たり前だ。私もゆっくりと起きて、人を呼んだ。
 起きて、一通りの身だしなみは整えられる。けれども日中、私は特にやるべきこともやりたいことも、やれることもなかった。数日前は屋敷を散策したりもしたが、今は物や人の出入りが多く、丁重に邪険にされる。私は与えられた自室で読書や編み物に勤しんだ。
 そして私は思考する。
 この家のこと。星宮夫人のこと。私のこと。戦争のこと。戦場のこと。――彼のこと。
 私はどうしていくべきか?答えが出るはずもなく、私はただ黙々と頁を進めるだけ。
 ふと手に取った新聞には、北方戦線の記事があった。

 夜も更けて、主人はようやく現れた。
 連日と同じように疲れた様子で、まず真っ先にソファに腰掛ける。
「斎様」
「なんだ」
「お疲れのようですし、早くお休みになったほうがよろしいのではありませんか?」
 十中八九、主人は私に気を使って会話する時間を設けている。おそらくはそうやって、私と『応対』している。けれどもそれは不要だ。私なんかに気を使わず、可能な限り寝てほしい、と、思う。
 しかし私の気遣いは、彼には受け入れてもらえなかった。
「そんな事に構う必要はない。私は、貴女のことが知りたい」
 瞠目して、二の句が継げなかった。真っ直ぐな言葉が刺さって、当の本人はいつも通り薄い笑顔に無感動な声音なのに、私だけが妙に気恥ずかしい。なんだろう、これは。なんで私だけが恥ずかしがっているのだろう。
「…そ、そんなことではありません。もう3日足らずで戦場へ行くというのですから万全を期す必要があるでしょう」
「どうせ出立してからしばらくは車で延々寝ることになるのだ。多少は無理もきく」
「ゆっくりと安心してお休みになれる機会は、もうしばらく来ないかもしれないのですよ。私のことなどさて置いてよろしいのではありませんか?戦況を思えば、約定の2年で本当に戻れるかも疑わしいのですから…」
「戻るさ」
 切り捨てるような冷たさだった。
 息を呑む。主人の瞳が僅かに細められる。怒ったのだろうか。――何に?
「私は2年後にはここに戻ってくる。……だから、2年後を思えば、貴女とこうして今話をするというのは遅いぐらいだ。学園で特に意識を持たなかったことは反省している」
「……」
 わからない。主人の中の明確な価値と、私の価値観が合致しない。何をむきになっているのだろう。意地で言っているようにも見えないけれど、順序立てた論理の末の確信ではない。
 戦場は激化の一途を辿っている。王国は武力投入を惜しまないし、なにより強固な後ろ盾が控えている。それがいつ参戦するかも分からないし、なにより彼らは数が多いのだ。魔力適応の無い人間でも、幾千幾万と束になればやれることなど山ほどある。一方で私たち公国民の魔法はそもそも乱戦に向かない。一度の犠牲者が多く、新兵でもとにかく徴兵せざるを得ない。
 でも。
「そこまでお考えで、なぜ斎様が出陣するのですか」
「…」
「良き当主たれ、と貴方は仰いますが、私にはわかりません……」
「……」
 私の沈黙に、主人は何一つ告げることなく目線を窓へとやった。つられて私も見やるけれども、外は真っ暗で、ぽつぽつと星が輝いている。小さく月が輝くが、雲も無く殺風景なばかりだ。
 私は視線を主人へ戻した。主人はまだ外を見ていた。何の確証も無いけれど、多分、月を見ていた。
「伯爵とは」
 震える声、とは言いがたいかもしれない。しかしいつも以上に慎重に言葉を選んでいるのは確かだった。私もひどく緊張する。
「人の先頭に立つ者だと、言われてきた」
 静かな室内に、声が響く。
「もう既に多くの兵を戦場へ出した。更に続くようなら、民衆の疲弊、――枯渇は目に見えている。この時点で、俺が出ずにいつ出るというんだ」
「……」
「民を導かねばならない。伯爵には、その義務がある。……そう、母に言われ続けてきた」
 それは呪文だった。幼い頃より繰り返された呪文。そうあることしか知らないのだろう。伯爵だから、当主だから、その一言で全てが片付けられる世界。そうして彼なりにその世界で従順に生きてきた。傀儡ではなく、当主であるために、必死に選択してきた。
 私はようやく合点がいって、……そして思う。
(かわいそうなひと)
 けれど突き放す気にはなれなかった。私は知っている。主人が正真正銘良き権力者であろうとしていること。理想像を叩き込んだ夫人さえも押しのけて正しくあろうとしていること。ここで、哀れだと蔑んで見放すには、彼自身の私欲は感じられない。自己陶酔でもない。主人は虚勢を張って戦っている。
「……この回答では、納得いただけないだろうか」
「…いいえ。よく分かりました」
「そうか」
 言うだけ言って、主人はまた居たたまれぬように視線を逸らす。
 私は、どうすればいいのか?
 主人が善良なる権力者であろうとしている。そのための努力を惜しまない。そんな主人を見捨てることはできない。…となれば、答えは一つだった。
「……貴方がそうなさるのなら……そうですね、私は、貴方の帰りをお待ちしておりますね」
「……」
 こちらを向く視線に小さく微笑む。驚愕が隠せない主人を見て、頬が緩む。
(しまった)
 困った。大変だ。とてもとても大変だ。表情が崩れたことがこんなに嬉しいなんて、どうかしている。いつもの笑顔でないことがこんなに心弾むなんて、どうしよう。
 眉尻が下がって、それでも笑うのをやめることが出来なくて、そして、つられるように主人も笑みを返した。特に意味は無いけれど、とりあえずそうしておく、ただそれだけの笑み。いつもの笑顔。落胆する自分を自覚する。
 次の言葉は、思いのほかするりと抜け出した。

「斎様。私は貴方の妻です。…私に気を使う必要はないのです。――無理に笑わなくても、よろしいのですよ?」

 驚きは顕著だった。怒られるかと思った。
 結果的には、主人は何か言葉を飲み込んで、深い深い溜息をついた。
「……無理をしているように、見えるか」
 肯定の代わりに小さく微笑むと、彼はまた一つ深い溜息をついた。
「…………俺は、…こうする以外に、接待を知らない」
「接待などと、思わなくてよろしいのです。私は、」
 貴方のことが、と続こうとして思いとどまる。
 な、何を言おうとしているんだろう。ばかか、私は。そんなことを言ったところで相手が応えてくれないのはほぼ間違いないし、なにより、自分でも納得していない。こんな数日で、こんな気が利かなくて、心を許してくれなくて、もう明々後日には遠く戦場へ出てしまって、…生きて帰って来るかも知れない。
 何もかもが絶望的で、言葉に詰まったまま黙る。主人が訝しむのも仕方の無いことだと思う。
「……どうした?」
 困惑気味な主人の表情に笑顔は無くて、それを見て慌てて言葉を紡ぐ。どうしよう。嬉しい。
「わ、私だって貴方のことが知りたい。接待をする姿ではなく、もっと、素の…」
 言葉は続かなかった。
 顔が火照るのが分かって、声が震えた。俯く以外のことが出来ない。
(どうかしている)
 そうだ。どうかしている。彼が私に応える姿など想像もできないのに、ほんのひと時の邂逅で終わりかもしれないのに、こんなに心惹かれている。学園に戻って、普通に生活をしていれば、もっと好きになれる人に出会えるかもしれない。でも私は彼の妻で、彼のことを嫌いにはなれない。……そして、私と同じものを彼に求めている。
 もっと自然体でいてほしい。楽しそうに、笑ってほしい。
 どうかしている。
「…………もとから表情は出にくいほうで、」
 小さな独白を聞く。困惑気味な表情。葛藤の垣間見える声。
「素で話せば、気分を害するだろう」
「構いません」
 困って、そしておそらくは素に近い表情で、眉間に皺を寄せる主人とは裏腹に、私は微笑むのをやめない。破顔しそうになってギリギリでこらえている。
「率先して関係を崩したいとは思っていない」
「崩れません」
 やや語調が荒くなってくる。…強情だ、お互いに。
「俺は、お前を不快にさせたいわけではない」
「接待の方が嫌です」
 瞬間彼は険しい顔をして、――そして深い深い溜息をついた。今日一番の溜息ではなかろうか。
「…………お前、などと言ってすまない」
「そう呼んでくださって構いませんよ。貴方が呼ぶのなら、私は答えます」
「……相当強情だな。お前は」
「そうですか?」
「……」
 主人が苦笑する。しょうがないな、と思われているのか、変な奴だと思われているのか。どちらにせよ、私はその表情に不満は無かった。その表情を引き出せたことが、嬉しい。
(あぁ、これは大変だ。困った。大変な人に惹かれてしまった)
「……耐え難くなったらそう言え」
「えぇ」
「疲れた。寝るぞ」
「はい」
 私も苦笑する。早く寝たほうが…なんて言っていたのに、もうこんな時間だ。日付も超えて更に針は傾いている。寝室でまた二人横になって、私は、またドキドキしていた。
「お、おやすみなさい」
「…お休み」
(…もう。…あぁ、もう!)
 今夜は眠れそうに無い。

2011/12/23