五日目

 朝ではない。体感では夜中。ようやく寝れるかという頃、ピピピと微かな電子音が聞こえた。それと同時に隣の気配がすぐに動いてまもなく音は止んだ。
(……あさなんだわ)
 体は動かなかった。瞼を開けようとするも体は激しい抵抗をして、明るくない室内を見ようともしない。体は完全に沈黙している。けれど思考だけは徐々に糸を紡いでいた。
 最小限の音で隣の気配が遠ざかるのが分かる。
(あの人がおきる。しごとが始まるのね)
 起きようと思った。この後また寝てもいい。「おはようございます」と一言いえたらいいと思った。
 けれど睡魔の抵抗も必死だった。瞼を開けることすら出来ずに、無論腕も動かない。どうせ私が起きているとも、起きるとも思っていないのだからいつもみたく寝ていればいい。そう怠惰が脳をよぎる。
(だめ)
 それはだめだ。怠惰によってでは、主人の隣には立てない。
 思考の片隅がひやりと覚めた。目を開ける。豪奢な天蓋は暗くて見えない。小さく衣擦れの音がしていて、そちらに主人がいるのだと鈍く思考する。
 もぞもぞと頭をそちらへ向けた。それが精一杯だった。体の覚醒は、脳に比べて愚鈍だ。
「……起こしたか」
 主人がこちらを向く。
 意味も無くほっとして小さく微笑むと、目を細めた拍子に瞼が下りてしまいそうだった。慌てて深呼吸していると、主人の影が近づいた。
「寝ていていい。まだ早い」
 首を横に振る。ほんの少しだけ。
 はぁ、と呆れたようなため息が聞こえる。頭上を見上げるのは少し億劫で、その表情は伺えない。
 ふと頭上から腕が伸びて、目と鼻の先、ベッドの端で手をついた。ぎしりと音がする。不思議に思って見上げると、存外近くに主人の顔があった。
「大方寝ていないのだろう。後が辛いぞ」
 首を振った。
 起きる為腕を動かそうとすると、すかさず主人のもう片方の腕が伸びた。肩を軽く押さえて、私が抵抗しないとみると髪を撫でた。くしゃり。優しく触れられて、つい目を閉じる。
 あぁ、いけない。一度閉じると、開けるのがたいへんなのに。
「いいから。…お休み」

 多分、聞いたことも無い優しい声だったと思う。
 ほんの少し目を瞑っていたはずが、目を開けたら日が昇っていた。昼にもなろうかという時間である。あぁ、流石に寝すぎだ。
「……」
 夢現の出来事が、夢でないと断言できない。おそらくこの憤りは、もったいない、のだと思う。
「…………」
 なにはともあれ起きなければいけない。こんな、のんびりしていてはいけないだろう。特にやることがなくても、とにもかくにも起きていなければ。
 私は人を呼んだ。メイドはやはりしたり顔で丁重に労わってくれた。


 やはりその夜、いつもみたく遅くなってから主人は現れた。
「お疲れですね」
 ソファにかける主人に言う。応えるように零される深いため息。やはり主人は疲れている。無理もない。まもなく出ると言うのにまるで仕事が減らない。増えてすらいるように感じる。私が水差しを取ろうとすると短く断られて、ほどなくソファを立った。
「今日は流石に寝た方がいいだろう。明日は晩餐になる」
「晩餐、ですか」
「そうだ。出立する兵士たちを呼ぶ。上流の堅苦しいものではない。が、その分荒れぬとも限らん。お前は早々に退室するように」
「……」
「何せ、最後の晩餐だ」
 主人は私の手を引くと、まっすぐ寝室へ向かった。
 兵士たちにそういう場を設けるのは、主人の優しさだろうか。恒例なのだろうか。私には分からない。けれどこれでまた主人の心労が増えるのは事実だ。私の眼前にある背中が、心配だった。心配だけれど、特に何ができるわけもなかった。
「斎様、その、退室などしてよろしいのですか。私は別に」
「いや、退室すべきだ。……仕事は特に無い。形式だけの出席で事足りる」
「……そう、ですか」
 主人の隣にいる必要はないのだと、そういうことなのだろう。私に反論の余地は無い。今だって、ただ無駄に逢瀬を重ねているだけなのだ。私で役に立てることなど露ほども無い。そんなことは分かっている。
 ベッドにて靴を脱ぐ。その時主人が小さく口を開いた。
「……お前は」
「なんでしょう?」
 問う声は遅い。
 主人は私に答えを求める時、こうして躊躇う。それが私に遠慮してなのか、それとも私の返答如何を考えているからなのか、もっと他の理由によるのか、私に知る由も無い。けれどこの瞬間が私は少し好きだった。戸惑いが前面に出ている。日常では、そうはない光景だと確信していた。
「…俺に無理をするなと言ったのだから、お前もまた俺に対する遠慮云々を忘れるべきだろう」
「……斎様…」
 私だけをベッドにあげて、主人はその端に腰掛けた。浅いため息と、不機嫌そうな顔。
「様、と付ける必要もない。…お前が俺の妻だというのなら、そういうことではないのか」
 言葉を失った。そんな言葉が出てくるとは思っていなかった。なんと返せばいいのかわからない。言葉がつかえて出てこない。胸を占める感情はなんだろう。
(嬉しい、…の、かしら……)
 対等たれ。その言葉のなんと甘美なことか。
 私は、嬉しい、と思うのに、素直に喜べなかった。ドキドキしている。…緊張している。私は彼の隣に立てるだろうか?彼の期待するほど、応えられるだろうか?私は相応しいだろうか?
(……相応しくなりたい。隣に立ちたい。…けれどそれは、互いに互いを理解していたいというだけのこと…) 
「……で、では、斎様、」
「…」
「い、…斎さん、と……お呼びしてよろしいですか」
 胸躍る、心躍るような、思い浮かべた対等は私たちには相応しくない。気兼ねがないことと礼節がないことは違うのだ。きっと私は永遠に主人を呼び捨てることは出来ないし、同級生の友人のように扱うことは出来ない。それでいい。
 呆気に取られている主人を見て、私はそっと微笑む。半歩下がって付き従う…それが全てだとは思わないけれど、彼の成すことの邪魔をしようとは思えなかった。不用意につつくことも、強引に道を逸らすことも。
「…………俺はお前に、無理を言っているか?」
「いいえ。……いいえ、私はこれで良いと、心底思っているのですよ。斎さん」
「……そうか」
 顔が熱い。頬が紅潮しているだろうことはまず間違いない。少しずつ垣間見える彼の内心を思うと、私は嬉しくて仕方がなかった。それ以上の何かは必要なかった。
「お前は度し難いな」
 主人もまた、ベッドにもぐりこんだ。私のすぐ傍で、ふぅと息をつく。
 褒められているのか、そうではないのか計りかねる発言だった。けれど、私は主人に対しておそらくこの上なく素直で従順だと思う。ただ単に私が思っているだけで、傍目には違うのかもしれないけれど。
 その認識の為に主人が私に構ってくれるというのなら、それもいいのかもしれない。そう思う。
「ふふ……。おやすみなさい、斎さん」
「あぁ、…お休み」
 声は呆れていた。それでも表情は穏やかで、聞こえる寝息は随分落ち着いている。
 私も、そっと目を瞑った。

2012/01/05